第16回深セン和僑会 MGBマーケティングLtd.代表取締役:武田頼弘 氏

第16回深セン和僑会 MGBマーケティングLtd.代表取締役:武田頼弘 氏 2008/03/08

開催日時: 2008年3月08日(土) 議題: 「60カ国300回社長の起業成功のエール」 講師: MGBマーケティングLtd.代表取締役:武田頼弘 氏 開催場所: 羅湖爵士大厦 記載者: 深セン和僑会事務局  関 敏 出席者数: 70名 議  事 講師紹介

MGBマーケティングLtd.代表取締役:武田頼弘 氏

【略歴】 60年代にアフリカ出張して以来アメリカ駐在も含み60ヶ国300回以上の海外出張を経験し、現在は年商10億円の商社経営MGBマーケティングLtd.を経営。

MGBマーケティングという会社を経営。 資本金6000万円、年商10億円ぐらい、取り扱い商品、プレミアム商品、弱電商品、菓子玩具フィガーアイテム

香港、深セン、にんぽう、南京、本社は7名でやっている

話をするきっかけ、香港和僑会でお酒が回って話をしたら誇大に捉えられて、是非やってほしい。 発端になって、固辞をしたんですが、深セン・香港ですごい社長、先生が話されるのに、私なんかが思いましたが・・・時間が来てしまったので話をします。

友達に英語学院がいる、何のために話をしているのか、聞いたら家庭の環境もあるということ。 そうじゃない、英語は人生を支える大きなツールになる。小冊子を書きました。それが1年前に書いた。

大学を卒業した。就職試験を受けた。学生時代は、当時、生活費は18000円ぐらいかかって、10000円仕送りがあった。サラリーマンであるの親が仕送りしてくれた。その残りはバーテンダーの仕事をして稼いでいた。飲み屋というかクラブですので、中小企業の社長が「頑張れ」と声をかけられた。卒業して就職試験を受けた

学生時代がそんなものだから、中々受からなかった。2月まで就職課にいった。輸出商社があった。そこを受けにいった。30名程度の小さな商社。新卒でうちの会社にきたのはあなただけ、「いつから来てくれ」 「何ができるか聞かないんですか?」 「新卒で来てくれたから」と言われ、渡りの船だったので引き受けた。

何も分からずに見習いをはじめた。30名といっても優秀な社員は当時いて、一体何をしたら目立つか?と言うことを考えて動いた。一つだけ出来る。と朝早くいく。でもどうしても2番目。8時にいったら7時45分、7時45分にいったら7時30分とどうしても2番手。じゃー何か、テーブルを掃除することは出来る。みんなの机を掃除した。9時に全社員が来る頃が綺麗になっていた。新入社員の生活を送る。そうこうしているうちに1年ほど経ち、社長からお呼びがかかり「英語が出来るだろう」とたずねられ、「出来ます」と答えたら、「アフリカに行ってくれないか?」と命令された。社長も心配だったら、当時海外だったらどこでもいいと2つ返事で引き受けた。それでアフリカ出張を引き受けた。

(アフリカの写真を見ながら)ザンビアにいきその国の海岸で撮った写真 写っているラジカセも輸出していたりした。アフリカで仕事をしてよかったこと悪かったこと寂しかった、色々考えたらあるのですが、ものを売る。どうやって売ったかということ。DHLもない。持てるだけの当時、チャイナと一緒で安かろう悪かろうの時代で、夏に蚊帳とか色々なものであった。ヨーロッパやアメリカで30数年前、日本の支店をそのまま作って、販売網もなかった。誰か興味があったら売っていいよ。当然あんた売っていいよ。儲けるだけ儲けたらとなった。バイヤーリストもなくどうやってやったかというと、小さな国だから、1年坊主は考えて、メインストリートを歩きまわっていた。そうすると看板の大きなところがある。そこに飛び込んで商談をした。当時はファックスも携帯もなかった。テレックスしかなかった。日本には、テレックスで3時か4時に電話する旨を伝え、社長の支持を受けた。アフリカでは30歳までやった。

サンヨー電器さんもいらっしゃるみたいですが、リベリアの大きな看板の会社があり、社長らしき人と話をした。うちは大きな会社だから強い電気メーカーの輸入をして売りたいと話をした。なぜかサンヨー電器さんの名前が出て、全然コネも何もないのだが、やった。5000万円ぐらいLCを開くからやってくれないか?あわてて社長に電話したら、社長がかけあって、鳥取工場に1年坊主が帰国してそのバイヤーと話をした。半年アフリカ行って、半年日本に帰ってきた。当時、そこに日本人にいなかったのでかなり辛かった。船などきたらあつかましく船に乗り込み、日本の食糧をあつかましくお邪魔した。昼飯代もことかく有様だった。1件か2件店をやり、昼飯食べたりした。独身だったのでガールハントをしたりした。

大阪半年、アフリカ半年だと贅沢になり、「私は一体何をしているのか?」という心境になってきた。福岡の両親に電話して、「結婚したい」寂しくなった。お見合いでもいいから、紹介してくれといって、何枚か写真を送ってもらった。そしてダブルヘッダーなどでお見合いをして今の家内と結婚した。

結婚して40日ぐらいでアフリカ。さすがに新婚生活だったので、涙のお茶漬けを食べ、そういうことでずっと仕事は仕事で続けてきた。

今度30歳になって、子供が1歳になって電卓が出回るようになった。この電卓は当時は非常に革命的だった。中にICが入っていた。これが技術レボリューション。人類史上でこれは革命的だということがわかった。それを証明するのに、最初は10万円ぐらいした。3ヶ月したら半分で5万円、3ヶ月で半分。その3ヶ月したら1万円をきりポケットに入るようになった。前向きに会社を退社して、私は30歳で独立して、企業した。動機はこの電卓は面白い。この商売でいけるのではないか?となった。

それではじめた。起業して1年ぐらいは上手くいく。その当時は必死でやるのでうまくいく。100万円家にあった。90万円くれ。それをもってヨーロッパで電卓を売りにいった。国と国が接近しているので2カ国ぐらいは回った。ホテル代を節約していた。3ヶ月したら1万円になる。あちこち回って、頑張った。納期がないときには、伊勢や三重があった、何カートンかあった。社外で箱詰めをして説明書をいれ、エアで飛ばした。それぐらい頑張った。それぐらい頑張ると儲かる。32歳ぐらいが絶頂期、家を建てて、カードで女房にモノを買った上げたりした。絶頂期を向かえ、 皆さんは私の真似をしないでください。そうすれば成功する

そえモン町のクラブで知らないところはない。と私は遊びに夢中。電卓がよかったので、電卓からキャッシュレジスター、今はPCという流れに気づかず、会社はかげりを深め、最後は37歳で破産をした。私の撒いた種。会社は倒産したら、友人とか人脈は裏切る。其の視線に耐えられなり、家を売って、東京に引越しをした。当時車の運転ができず、東京まで女房に運転した。女房には「会社をたたんだ」ということをせず、東京のほうがよさそうといった。 おそらく気づいていた。

小さな事務所で、ごちゃごちゃとはじめた。そのときの心境は、30歳のときはじめて、100万円、数千万円の損。今50万円あるといって、じゃー50万円の損なんだなといって、ごちょごちょとはじめたが、そー人生は甘くない。苦しみもがいていた。2ヶ月電話がなり、大阪の◎◎社長。大阪で活躍していたのに何で東京にいったんだ。といわれ、事情を話したら「上手く言っているのか?」といわれ、「曖昧にいった」らヨーロッパの家具をうりにきている。これあんたヨーロッパに売りにいってくれないか?と言われ、ヨーロッパに売りにいった。

ものを買うにはお金が話がある。お金がないんですけど、売ったら代金は回収できるんだろう?LCがあるので2週間ある。2週間で払ってくれればいい。一日で売ればいい。送金したいといったら、お金を支払いをすませにいった。東京で事業はどうだとまた聞かれた。そのときは白状したら、うちのところこい。と言われた。貿易部長の肩書きがもらった。 あんたさんが好きなところもらってくれればいい。適当な場所をつくってあんた自分でやってくれ。となり輸出で味をしめた。2ヶ月ぐらい。商品は安かったので売れた。メーカーでも何でもないので、そう簡単に売れない。商品も売れずに悩んだ。

国内の商社。200名のバックがいる。輸入する。それを国内で販売。韓国、台湾。毎週のように言った。色々なものを輸入して、200名のバックを背にして、順調に業績が伸びた。入社3年目で役員で絶好調で7年目で岐路が来た。

「私も大体わかった」と社長に言われ、「一つの事業部をやってくれないか?」それは考えた。今まではすべて接点は外人だった。接点の実感がわかなかった。会社の人事は厳正だったのでやりました。壁があり、テーブルの足をけられるぐらい。業績が悪かった。怒られて辛くなった。そして辞表を出した。

社長は役員にして、会社を立派にしよう。 海外がどうだということ、事業部の仕事は辛い、私は浅はかだった。

会社は辞めるということはありうるでしょ。 会社を独立したい。というのはあるが、社長に怒られるからといって、辞めるのはよくない。たぶん将来の幹部にしたかったのに、

浪人をして友達と麻雀をしたりしたりして、人生がそう簡単に開けない。 麻雀をしていた友達にもういっぺん会いに言ったらどうや。 あそこは海外の人材をいない。仕事があるかどうか聞いてみろと言われた。

家に帰ったら、明日のご飯にも欠く 社長に会いにいった。 社長は「何しに着たんだ」と剣幕だったら、 会長がいない「アメリカが会社の話」 社長は「人材がいない」 だったらいいじゃないか? とアメリカにいかしてもらった。平社員。当時400名の社員で一番下。

明日のご飯が食べられない。家族のちらちらきた 応接室で土下座をした。 わしらはいいが、社員が動かない。 心を入れ替えます。明日から頑張ります。平社員の武田です。

アメリカの生活は勉強した。日本ともアジアとも違い。 ただしアメリカの仕事はあまり成功しなかった。 1年目に家族と女房を呼んだ。ドライブなどしていた サラリーマンは女房経由で子供に色々話をしてもらった。あまり仲がよくなかった。

日本で女房経由だったが、アメリカでは家族3年目で夕方5時でステーキも作ってくれるということなので、家族は仲良くなった。 ただし仕事はあまり上手くいかなかった。 仕事が上手くいかなかったからプライベートはよくなった。人生は裏表。 日本で帰って、1年、私だけ平社員。肩書きない。国内の商社は独特のシステム。営業部は朝礼・夕礼があった。ホームセンターに物を売っていた。部長以外はすべて営業成績している一点1万円の利益、何点・・・5点といった。コンピューターに利益はでてくる。週ごとに目標達成したらぴかぴか光る。 いつもゼロ。段々高額品、技術品。雑貨なんかの輸出はない。韓国・台湾はない。 来る日も来る日もゼロ後進。20代の人に冷たい人にみられた。 だけど辞めなかった。

だけど不思議なもの。 アメリカから紹介してもらった会社の香港の商品を輸入した。全社で10億円の利益。そのとき5億円の利益。 香港は何か儲かりそう。香港のチケットをもらった。これが約15年前

当時、中国は汚い。トイレは気が遠くなる。中国中回ってきた 本社の人は香港どまり。カラオケと日航ホテル。私は汚い仕事を受け持ち、彼らは日本で綺麗な仕事。 7年間やった。

段々華ひらいてきた。もう流れは中国。うちに中国人が10人いる。 深セン、上海に支店を開いた。 タケちゃん帰ってきて。 1年間ゼロ行進、55歳で日本に帰って事業部は辛い。 MGグループで香港で何しようとしているのや。何をするのか分からない。 何をするのか分からない。と悩みを打ち明けたら、 今更サラリーマンになれないだろう。と60万㌦、40万㌦で出し合って会社を出した 女房と武田社長二人でやった。 何をやろうか悩んだ。55歳で年齢も上がっている。 世の中、日本で色々なもの売られて、ハイテクは無理、1000円なら1000円、2000円なら2000円という雑貨の商品ならできる。 色々なロフト、そこらをぐるぐるぐるぐる回ってサンプルを買って、中国で10文の一で出来ないか?と全部真似ないで少しだけとやった。お客様はつかなかった。 そうこうしているうちにオーダーが来るようになり、今こうしている。

主題は 短気は起さないように、サラリーマンのうちに準備。 計画を持って辞めてほしい

サラリーマンが社長(オーナー)に出来ないこと、辞表を出せる。 計画を持って会社をやって欲しいと思う。 私の運命副題が必ずある。ある会社の社長が入社しないか?と声をかけた アメリカ、家族と仲良くなれた。アメリカの少ない人脈で5億円設けることができた。 今度香港を辞めた。また辞めた。60万㌦出すからやったらどうだ。と言われた。 言うことでやった。MGBの社長。60%と株を買い取った。全部返済をしたことになる。 今の会社をやっている最中。この会社が上手くいくかはわからない。 最後に申し上げたいことは、 もはやブランドは通用しない。 今年の新入社員「何をもって会社を選んでいるか」 社風、現場の対応、成長したいことができる 2年前、やりたいことをやるのが独立 30数年前に会社に入った、友達にも会社の名前。企業の知名度と規模が低くていえなかった。 今年の大学生のアンケートはラストになった。一番、 自分の気に入らないので、一番マッチングできる。今の大学生と同じになっている。

名刺フォルダーを3冊作ってくれ。 お客さまよう 2冊目は業界の名刺。 どこでどう助けてもらえるかわからない 3番目は、小さめでいいのでプライベート。プライベートの人脈。企業するのに、ビジネスでやるので、引退したら、何でビジネスをやっているか? この瞬間に、ビジネスの話をして「友達になれる」 魚釣りの話をしても中々友達にならない。ビジネスで話が開いて人脈が広がる。 ビジネスは比較的難しくない。天道よしみなどの演歌歌手、バイオリニスト、宮里愛の ゴルフ、一生やってもなれない。僕が保証します。 カラオケ、五木ヒロシは越えられない。そのぐらい一生懸命やっている。 テレビで演歌歌手の歌、涙が出る。そういうレベルになれないなら、せめてビジネスは一生懸命にならない。 ビジネスは言葉を変えると恋愛。50名、60名惚れたらいい。恋愛中に惚れたらいい。夕方電話したり、次の日曜日、努力するでしょ?仕入先やお客様に努力する。ちょっと儲かるから、評価してくれているかわからない。恋愛をしないといけない。何人の携帯電話を書いているかわからない。日頃付き合いのある人、ほとんど書かない。。。1年間削除すればいい。無くしたら駄目。若い方にとって、名刺ホルダーは1億円、携帯電話は2億円。レストラン関係、お客様の顔を覚える、握手までしたら・・・ またお待ちしています。こうやったらまたお客様も呼ばれる。 深センで頑張っていられるということでお話をうける。 深センチケットは売り切れる。限られた入場券の前のほうの席を持っている。 大変生意気ですがエールを送りたい