第15回深セン和僑会 三恵有限公司 会長 西口元三氏

第15回深セン和僑会 三恵有限公司 会長 西口元三氏 2008/01/19

開催日時: 2008年1月19日(土)
議題: 「華南の中小製造業を見つめて29年・・・ビジネスと自分史」
講師: 三恵有限公司 会長 西口元三氏
開催場所: 羅湖爵士大厦
記載者: 深セン和僑会事務局  関 敏
出席者数: 60名

30年以上現地で貿易、電線類の販売

個人的な話をする

電線(巻き線)の技術屋からコマーシャル、商売に移った。

1930年の1月69歳になる。 名古屋で学業、住友電気工業、電線の技術を勉強した 1968年29歳のときに1人でインドのハイデラバードで技術指導にいった。 当時は何もなく、日本の新聞も日本食も、日本人自体いない。日本人に会うために 1時間、2時間かけてボンベイやニューデリーにいかないといけなかった。 住友電気で8ヶ月かけてやった。インド人のど真ん中でやった。 それが海外での仕事の第一歩になった

太平洋電線会社、台北やタイにいった。シンガポールで自前の工場を作るときに工場長として赴任。日本に帰る命令がきた、上司がアメリカ好きで私がアジアの話をすると嫌がる。 帰任して、3分で辞めた。 すぐには辞めさせたくない、上司がいや、1979年に香港で香港人と会社とはじめた。 当時で言うと、香港はイギリスの植民地だったから、自由に行き来ができ、何でも仕事ができるので、香港にした 1997年に深センに駐在事務所を作った。事業は許可がおりなかったが、2,007年に事業許可ができた。2001年に上海、2004年にバンコックに会社設立

MYP 西口、ようさん、ぷんさんの持ち合い会社で始めた。3分の一ずつではじめた

香港は37人の社員がいます。 日本人1名(西口さん)8年前に初めて日本人を採用した。倉庫を持っている。在庫をおさめる、集金する。14名が配送関係、深センが実際の営業拠点。現在は独立会社、35名いて、嘉里中心 日本人2名、香港6名、上海が24名 バンコック、天津に販売会社を作った3名、

合計で105名の人員がいる。香港人は仕事をする上では役に立つが、人間的にはあわない。香港にいる日本人奥様、香港大好きが7~8割、ファッション、食事がおしゃれなどの理由。、嫌いが30%、中間はない。 4~5名しか香港人は役に立っている。けんかはしないがほとんど無視をしている。私が極端に中国びいき。香港人は中国人をみくだす。おるだけでよいというようにしている。

アグネスチャンが子供が偉そうにしている。たいした学も知識もないのに偉そうに自己主張をする。そういった独断と偏見に満ちている。そこを割り引いて聞いていただきたい。

去年の実績、140億円ぐらい。上海は50%ずつぐらいの勢いで伸びている。現在は中国は、青島や天津をやるらしい。すごい勢いを感じている。

お手元の資料は29年間、製造業にお世話になりながら、体験をそれこそ断片的に話をすると、ホンコンは金属関係をささえてきた。どうしても小さな仕事、ぷらすっちくの整形、偽物、上海からやってきた人は繊維。

広東省、プラスティックの成型とか金物を始める。さんちゃん工業(父、母、息子)、、それらのところに一間だけの工場をやっている。 そういうところにラジカセ用のモーターさん、いずれにせよホンコンで出来るのは、小さなもの、テレビなんかはできない。春日精機さんなんかがラジカセを作ったりしていた

1978年に中国の市場開放、工場進出の機運になった。(ここで西口さんは会社を辞めた)

ラジカセ(サウンドデザイン社)、協力工場でものを作る。部品を作っておられる。三協精機さんはラジカセの磁気セットを作った。ユニデンさんは携帯のない時代に電話機、部品や素材を日本で作っていた、コードから始まり、ホンコンで作るものはケースだけ。 そういうところに材料をおさめる。30人ぐらいの工場になっていた。 ヘアドライあーは部品点数が10点もなかった。ほとんど日本の品物であった。バイヤーはユダヤ人。貿易LCを見せてもらって、納品する。 当時私の商売の80%は日本。お客様の90%はホンコンの会社。1980年の前半。ニクスという言葉があり、タイ・シンガポール、どんどん日本に入ってくるが、故障がすぐおこり、すぐに駄目になった。 ユニデンさんのシェアが大きかった。ユニデンさんにおさめれば他の会社は自動的にOK。ユニデンが100円で買えば、他は120~130円で売れる。Sメガさんとか売っていた。 工場はホンコンだった。30名。それでも十分儲かる。 その当時、香港人で流行った言葉は「ホンコンドリーム」、起業してから3年以内にロレックスを腕につけベンツにのること。昔の大半はベンツは製造業の人がのっていた。 (今もホンコンの10%はベンツ)

その頃、ローインターナショナル。私どもと一緒の仕事をしていた。その当時でもホンコンドリームとは言わなかった。ちゃんとやれば仕事は回っていく。 日本料理屋にはいけなかった。衛生テレビもなかった。高級クラブはたくさんあった。 私達は、遊ばなくてよかった。ゴルフ場も1箇所か2箇所しかなかった。遊べないから、仕事だけしていればよかった。仕事のついでにマージャンだけはしていた。

このあたりから中国に関連をしてきます。 当時は、ホンコンはイギリス領土、三田工業さん、ヨーロッパ向けのものをつくった、そこで複写機を作っていた。複写機もアッセンブル。26社をお連れになった。そのうち、ホンコンに進出された方、信濃検地、三田さんのお仕事では採算があわない。20%ぐらい。 ものをおさめる、100%をつくる、現地で作らないといけない、小さなメーカーがたくさん、ホンコンに来た、コンデンサーとか、色々な部品がたくさん来た。 中小の方どんどん来た。事業としては30~50人になった。 素材がそろったからどの複写機メーカーがでてきた。キャノンやリコーなどが大挙してやってきた。三田さんは倒産、イギリスでもなかった。住友も恵州などに大工場をつくった。セットメーカーも移ってきた。30名では駄目。100人へノウハウがない。 そこで川副さんの出番。手伝ってくださった。 100人~300人ならワンフロアーで仕事ができる。宝安もある。政府のある工場もある。 大体ワンフロアー、300人ぐらいの規模の工場があるのがこの時代。 ヤオハンの和田さんも来てずっこけたと言う歴史がある。 300人ぐらいの工場になると、注文がどんどん入ってくるようになった。 そうすると300人じゃとまらない。今から10年ぐらい前になる。一挙に超えて1000人とか3000人になる。日本でいうとスバル、3000~4000名、、テクノグループは10000人、仕事が集まってくるからやらざるおえない。ハーネスでやってきた信越、今は1400人ぐらい。とにかく実力がついて、どんどん来ている。ハーネス、日本に持ってくるやつ、

上海がたくさん。華東地区、ダイキンやHP、ゼロックスなどのセットメーカーが多くて部品メーカーがなかった。全部華南から運んでいった。それぞれの量が少ない。どんどん大きくなるかもしれない。30人から300人と大きくなると予測している。南の地区がどんどんシフトをしている

営業マンのほうは全然少ない。量が少ないと値引き攻勢がない。量が大きいと値引きもある。 さて、お仕事で儲けていただく。 生のデータ。

販売実績。去年の1月~1月。華南地区での販売、日系,欧米、中国系が3文のいちづつ、 上海地区は中国系が70%、日系が20%、それ以外とわかれている。 お手元の資料の第4冊、三角債(いってもお金を払ってくれない)四角債 日系は1、欧米は2もうかり、中国系は3で儲かる。 絶対的にいえるのは日系に収めていないと信用されない。どういう仕事でも品質、管理。 でも日系会社は、品質監査を無料でやってくる。非日系のところで、もってきた。意識的にやってもいい。でも中国系はリスクはある。プリンターのHP・・・ 仕事でいうと、そういう会社で作っていると、アメリカとの関係で作らないといけない。

上海で商工会のデータ トヨタ 4200名の工場のほとんどが27歳の男子。男子の労働力はいくらでもあまっている。人が足りなくなるのがこれからの課題。

チャイナプラスワン、男子は増えているから心配 いい品物をとにかく作らないといけない。値段におされてそういうことをされた いい品物は高く売る。ソニーが安く売ったらソニーではない。

お米は30倍。いいものは高く売る。高いと大事に使う。不良をつくったらいけない 納期に間に合わない。ロスがプラスになるかもしれない いい材料で高く売るのはお客さんのためになる。金型一つでも不良が減る。 一時の判断ではない。安売りをしてはいけない。 まぶち、いがらし・・・直流モーター、110個(よい自動車)、50~60個のモーターにしている。 ホンコンのじょんそんのモーター(欧米系)、アメリカのGM、フォードはサンモーターが作っている。 起業をはじめられる動機は、親会社の撤退や倒産。もう一つは中小企業、、300人、3000人、、大きくなった、息子を送り込んだ。10年でどいて事業をはじめる。このままでは物足りないということではじめる。こういうことをはじめる 自分で始める、お金は儲けたい。住友より大きくしたい。この地に住んで稼ぐ 正々堂々と金を儲ける。と考えたほうがいい。 お勧めの本「現代中国」という本を読んでいただいたほうがいい。 愛知県の愛知大学で出している本は参考になる。

鉄道の旅をしている。

 

第15回深セン和僑会 三恵有限公司 西口元三氏

第15回深セン和僑会 三恵有限公司 西口元三氏 2008/01/19

「「華南の中小製造業を見つめて29年・・・ビジネスと自分史」

 

【講師】

西口元三

三恵有限公司

 

【略歴】

1968年 インドハイデラバードへ長期電線技術指導

1969年 台湾台北で電線技術指導

1971年 タイバンコックで電線技術指導

1974年 シンガポール電線会社へ赴任

1978年 日本へ帰任 住友電器工業退社

1979年 香港で三恵有限公司設立

1997年 深セン駐在員事務所開設

1999年 「香港ビジネス20年」発刊

2001年 上海に独立会社設立

2004年 バンコックに駐在員事務所開設

2007年 深セン及び天津独立会社設立

2007年 アメリカに連絡事務所開設

2009年 「中国ビジネス30年」上梓予定